2009年07月02日

男女共同参画社会基本法に

男女共同参画社会基本法に基づくポジティブ・アクションに取り組んでおり、全研究者の中の女性研究者比率が2020年までに20%になるよう努めるとの数値目標を掲げ推進している。

北東アジア地域との連携を重視しており[3]、韓国・台湾・中華人民共和国などの大学とも相互協定を結んでいることだけではなく、定期的に青年海外協力隊(JICA)へも隊員を送り出している[4]。これは、同大学の建学の精神にも歌われている、国際性豊かな若者を育成することを重要視しているためである。

校章はキャンパス内に自生するオオバナノエンレイソウ(ユリ科トリリウム属の多年草)を図案化したもの。昭和25年の公募による入選作を、創基120周年を機に修正を加え、平成8年9月にシンボルマークとして決定された。なお、起源については、恵迪寮のシンボルマークから発祥説と、ラグビー部のシンボルマークから発祥説がある。
ダイエット日記に挑戦
スキューバダイビングを楽しむ生活を!
ゴルフパークへようこそ!
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スクールカラーは大学公式には決定されていないが、旗や体育会各競技のユニフォームなどに緑が多用されており、慣習的には、雪解けの新緑を表す「ライトグリーン(萌黄色)」とされている。

校歌は「永遠の幸」(とこしえのさち)と題し、札幌農学校時代に作られた。作詞者は有島武郎。米国人作曲家ジョージ・F・ルート (George Frederick Root) が1863年に作った"Tramp! Tramp! Tramp!"が原曲。この曲はアメリカ合衆国が南北戦争の時代に北軍の行進曲として歌われ、南軍でも歌われていた。また、歌詞を変えてアイルランドでも流行した。南北戦争後、米国の各大学でも学生歌に用いられていたものを納所弁次郎が選曲したといわれている。旧制の国立学校校歌としては特異な成り立ちである。

2009年06月13日

加速器(かそくき)とは荷電粒子を加速する装置の総称

加速器(かそくき)とは荷電粒子を加速する装置の総称である。原子核/素粒子の実験に用いられるほか癌治療などにも応用される。

原子核/素粒子の加速器実験には加速された粒子を固定標的に当てるフィックスドターゲット実験と、向かい合わせに加速した粒子を正面衝突させるコライダー実験がある。

高エネルギーの電子は軌道を曲げると光を発する(これをシンクロトロン輻射という)ので、大強度の高エネルギー光線を得る目的で電子シンクロトロンを用いる場合がある。このような施設を放射光施設と呼んでいる。

電極間に直流高電圧を付加し、その電位差により荷電粒子を加速する装置。連続ビームを得られるのは静電加速器のみである。加速エネルギーの上限は付加することのできる電圧の大きさに依存する。最大加速電圧はバンデグラフ型の場合で数十MeVであり多くの場合原子核/素粒子実験で必要とされるエネルギーを達成できない。そのため後述する線形加速器や円形加速器の入射加速器として使用されることが多い。直流高電圧を作り出す方法により以下の2つのタイプに分類される。

コッククロフト・ウォルトン型 [編集]
ダイオードとコンデンサーを用いた倍電圧整流回路を用いて高電圧を得る方式、アーネスト・ウォルトンとジョン・コッククロフトが確立した。加速エネルギーは数百keV - 数MeV程度。

バンデグラフ型 [編集]
絶縁物のベルトに電荷を乗せて電極に運び高電圧を得る方式。1930年にロベルト・ヴァンデグラフにより実用化された。加速エネルギーは10MeVほど。

バンデグラフの派生版としては、電荷移送ベルトの代わりに金属円筒を絶縁性プラスチックでつないだペレットチェーンを用いたペレトロンが存在する。加速エネルギーは20MeVほど。

また加速粒子として負イオンを用いて正電極に向けて加速し、正電極内で炭素膜などで電子を剥ぎ取って正イオンにし接地電極に向けて再度加速することで、高電圧を2重に利用する効率の良い加速が可能となる。これをタンデム加速器という。

電極間にかけられる電圧にはさまざまな実用上の問題から上限が存在する。その上限を超えて粒子を加速する工夫をしたもののうち、粒子を一直線上で加速するものを線形加速器と呼ぶ。ライナック(linac - Linear Accelerator)とも呼ぶ。

基本的な構造は多数の胴体筒を並べたものである。隣り合った胴体筒同士が異符号に帯電するように高周波電圧を印加する。それぞれの筒の間(以下ギャップと称す)では電場が存在するので粒子に力が働く。一方筒の内部は一様電位なので電場が存在せず粒子は力を受けない。筒の長さと印加する高周波の周波数をうまく調整してやると、筒の中を通る粒子がギャップを通過するたびに加速するように調整することが可能である。
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この方式でエネルギーの大きなものを作ろうとすると加速器の長さを長くしなければならない。当然加速器が大きくなれば技術的にも敷地の点でも困難は増す。したがって従来の線形加速器の加速エネルギーは数百MeV程度までであって、それ以上のエネルギーを必要とするときはサイクロトロンやシンクロトロンが用いられてきた。この場合シンクロトロンの入射器として線形加速器が用いられることが多い。

しかしながら21世紀に入って高エネルギー実験の最前線に挑戦する新しい線形加速器の建造が期待されるようになった。これは電子を加速する際にシンクロトロンを用いるとシンクロトロン輻射の影響でせいぜい十数GeVのエネルギーを達成するのがやっとであるという壁に突き当たったからである。いっぽう線形加速器は文字どおりまっすぐで加速粒子を曲げる必要が無いためシンクロトロン輻射の影響を考える必要が無く、加速器自体の物理的な長ささえ確保できればより高エネルギーまで加速することが可能である。

2009年06月09日

国立公衆衛生院

日本に初めて、公衆衛生技術者の養成訓練と公衆衛生に関する機関として米国ロックフェラー財団の支援により、昭和13年3月29日に国立公衆衛生院(厚生省)が創設(公衆衛生院官制の公布)された。その後、公衆衛生技術者の養成訓練と公衆衛生に関する機関として活動を続けてきた。[1]

1923年(大正12年)9月1日:関東大震災後、米国ロックフェラー財団より、災害地復興援助の一部として公衆衛生技術員の養成訓練機関開設設立援助の妥当性、実現性に関する非公式連絡が有り。[1]
1930年(昭和5年):公衆衛生院及び学生の臨地訓練機関としての都市及び農村保健館の設計図と共に公衆衛生院の計画案を米国ロックフェラー財団へ送付した。これらの計画案は、米国ロックフェラー財団に於いて検討された結果、遂に了承されることとなり、次いで建築設計の実施案の作製に着手することとなった。[1]
1934年(昭和9年):内務省内に公衆衛生技術員養成機関建設委員会が設けられ、建設に関する一切の事務を処理することとなった。全施設(公衆衛生院の建物、設備、器具、機械、図書並びに両保健館の建物その他とを併せた施設)に対する米国ロックフェラー財団の経済的寄与は総額350余万ドルに達した。[1]
1937年(昭和12年):公衆衛生院及び都市、農村両保健館の建物、器具機器、図書、等の準備が完了し、米国ロックフェラー財団より、建設委員会を通じ、公衆衛生院は日本政府に、都市保健館は東京都に、農村保健館は埼玉県に寄附された。[1]
1938年(昭和13年)3月29日:国立公衆衛生院(厚生省)が創設(公衆衛生院官制の公布)された。また、東京帝国大学名誉教授林春雄が初代院長となった。発足時の教授は、野辺地慶三博士(初代疫学部長)、斎藤潔博士(初代小児衛生部長、創立15周年記念誌編集委員長、第三代国立公衆衛生院長)、石川知福博士(初代環境生理科長、昭和23年東京大学医学部初代公衆衛生教授)、川上理一博士(初代衛生統計学部部長)があたった。
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国立公衆衛生院の誕生までには、当時の内務省衛生局、ついで厚生省の当事者のなみなみならぬ苦心があったことはいうまでもないが、特に建設委員会幹事野辺地慶三博士(国立公衆院発足時に伝染病研究所疫学研究室は、国立公衆衛生院疫学部として、新発足することとなった。初代疫学部長には、野辺地慶三博士が就任した。伝染病研究所疫学部研究室時代は、その性格上微生物関係の研究は、直接行っていなかったが、新設の疫学部は、この方面の研究も併せ行うこととなった)の献身的な努力に負う所が大であった。[1]野辺地慶三博士は、東京帝国大学医科大学を卒業後、伝染病研究所に入り、コレラ菌の血清学的分類法を発見し、この業績は、現在でも適用されている。[3]
1940年(昭和15年)12月に厚生科学研究所に改められ、昭和17年11月に厚生省所管の全研究機関と共に厚生省研究所に統合された。終戦後の昭和21年5月に元の公衆衛生院に戻った。[1]
国立公衆衛生院 創立15周年記念誌の序文において国立公衆衛生院の古屋 芳雄 二代院長が下記の通り述べている。[1]
本院の現在のあり方、またあるべき方向を決定するためには、本院がいかなる経緯を経てここに到つたかを知る必要がある。……例えば、本院の運営が多数の先輩諸士の援助によつて漸く軌道に乗った如くみえた後でも本院がいかに多くの難関に逢着せねばならなかつたか、特に曠古の大戦争の余波をうけて、度重なる組織の変更に逢い、本院職員がいかに苦闘をつづけねばならなかつたかも本誌に戴するところの本院官制の変革を見れば、これを偲ぶことが出来るのである。

本院は今漸く本院の当然あるべき姿に復帰し、本院のもつ16のコースはすでに7千の卒業者を出し、また多数の責重な研究成果の累積を見ているのであるが、その何れもが本職員の日々の精進苦闘の痕跡である。従つて本院がこの長い年月を通して到着した今日の態勢が容易に動かすべからざるものであること、況んや外部からの一時的な思い付きで簡単に動かしてならないものであることは、この記念誌を読む人のひとしく感ずるところであろう。

といって私たちは徒らに過去を尊重し、現状に甘んじようとするものではない。本院の主な事業が、国の機関に働いている公衆衛生技術者の養成訓練にある以上、それは時代の動きと政治情勢の変化に応じで改められねばならないのは勿論である。然しそのためにも過去の私たちの経験というものは大きく物をいうのである。この記念誌はそうした場合にも役立つことを私は信じでいる。

1965年(昭和40年)に世界保健機関(WHO)は、国立公衆衛生院のDiploma in Public Healthを諸外国の公衆衛生大学修士M.P.H.と同等のものと認め、「世界公衆衛生大学年鑑」に収録している。[2]
世界保健機関は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生大学院)」として紹介している

2009年04月25日

ダヴィド (トレビゾンド皇帝)

ダヴィド・メガス・コムネノス(Δαβίδ Μέγας Κομνηνός, Dabid Megas Komnēnos, ? - 1463年11月1日)は、トレビゾンド帝国最後の皇帝(在位:1458年 - 1461年)。アレクシオス4世の子で、ヨハネス4世の弟に当たる。

1458年、兄のヨハネス4世が死去したため、後を継いで即位する。しかし、兄の死を見てオスマン朝の反撃が始まった。

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これに対してダヴィドは、白羊朝のウズン・ハサンの支援を背景として、それまでのオスマン朝に対する貢納を停止するなどの強硬策で応じた。しかし、この強硬策にオスマン朝のスルタン・メフメト2世は怒って、白羊朝を攻めてアマスヤ、カスタモヌ、シノピを奪取し、フルシッド・ベイ(ウズン・ハサンの伯父)やサラ・ハトゥン(同母)を捕らえて白羊朝の動きを牽制した上で、1461年にトレビゾンドに攻め入った。白羊朝の支援なくしてはオスマン朝に対抗できるはずもなく、ダヴィドは降伏を余儀なくされた。こうして、東ローマ帝国系の最後の王朝として存在していたトレビゾンド帝国は滅亡した。

その後、ダヴィドはイスタンブル、エディルネと連行され、1463年に3人の息子と共に処刑された。

2009年04月08日

デスメタルの歴史

1980年代 [編集]
デスメタルは1980年代後半に、スラッシュメタルの影響下生まれた。中でもカリフォルニアのポゼストは、デスメタルの成立に大きな影響をあたえている。ポゼスト自体がデスメタルと呼ばれることはほとんど無いが、複雑な展開や悪魔的な歌詞は、後にデスメタルと呼ばれる音楽の原点になっている。ポゼストの1stアルバムには、「Death Metal」というタイトルの曲も入っている。スラッシュメタルとデスメタルの架け橋となったバンドは他に、セルティック・フロスト、スローター、マスターなどがいる。また、デスメタルと直接の関係は無いものの、ソドムやスレイヤーもデスメタルのルーツとして挙げることができる。

1980年代後半に入ると、アメリカフロリダ州のタンパを中心にデス、オビチュアリーなど、第一世代のデスメタルバンドが続々と出現する。この頃のデスメタルは、まだスラッシュメタルの延長線上にあり、スラッシュメタルと呼ぶ方が妥当だと感じる人もいるかもしれない。(ただし、デスヴォイスはこの時点で既に使われている。)また、最初期のデスメタルはハードコア色の強いスラッシュメタルが多かったが、この時期になるとデスメタルの独自のサウンドが確立されるようになる。

1990年代前半 [編集]
1980年代の終わりから1990年代の初め、デスやオビチュアリー、モービッド・エンジェルはアンダーグラウンドで人気を高めてゆき、デスメタルは一種のブームになる。この時期のアルバムには、アメリカフロリダ州のタンパにあるレコーディングスタジオ「モリサウンド」で録音された物が多く、フロリダはUSデスメタル・シーンの中心だった。また、ジャケットのアートワークの多くは、新進気鋭のダン・シーグレイヴがつとめていた。スコット・バーンズも、数々のデスメタルバンドのプロデュースを手掛けたことでシーンの有名人物だった。これらはこの時代のデスメタルのシンボルだとも言える。

前述のバンドに加え、ディーサイド、カンニバル・コープスなどはアンダーグラウンドに留まらない商業的成功を収める。サンライト・スタジオのあったスウェーデンもデスメタルの人気が高く、エントゥームドやディスメンバーが代表的なバンドに挙げられる。ただし、その後のスウェーデンのシーンはイエテボリのメロディックデスメタルが中核を担うようになり、純粋なデスメタルは衰退の道をたどる。ヨーロッパのデスメタルは全体的に見て、アメリカよりもディスチャージやセルティック・フロストの影響が強い。1990年代中頃になると、大手のレコード会社(特にロードランナー・レコード)がデスメタルバンドとの契約を取らないようになり、デスメタルのブームは収束の方向に向かう。

この時期はデスメタルの一般的なスタイルが定着すると共に、デスメタルのスタイルの分化も認められる。デスは4thアルバム『ヒューマン-Human』以降、変拍子や複雑なリフを主体とした曲を書くようになるが、このスタイルは一般的にプログレッシヴ・デスメタルと呼ばれている。ジャズ、フュージョンの要素を取り入れたエイシストやシニックもこのジャンルに入る。また、オートプシーはスロウパートの多さが特徴のドゥーミーなデスメタルをやっていた。サフォケイションやクリプトプシーはフロリダのデスメタルより複雑なリフを特徴とし、1990年代後半のアメリカのシーンに大きな影響力を持つことになる。

1990年代後半以降 [編集]
1990年代後半のシーンは、1990年代前半と比べて全体的にアンダーグラウンドの役割が大きい。アメリカでは、ブラストビートを主軸とし、次々とリフを変える複雑な演奏を特徴とするバンドが多く現れた。(ディーズ・オブ・フレッシュ、ダイイング・フィータス、アメリカのディスゴージなど)また、ファストパートからグルーヴィなミドルパートになだれ込む、ビートダウンも多くのバンドが使うようになる。サフォケイションなどは早くからビートダウンを使っていたが、1990年代後半に入りダイイング・フィータスやディバウメントのように影響力のあるバンドがビートダウンを取り入れたことで、多くのバンドが曲中にビートダウンを入れるようになった。

独自のスタイルが確立されたテキサスやニューヨークでは、多くのデスメタルバンドが誕生した。2000年代に入ってからは、アメリカ以外の国でもこれらニュースクールのバンドが出現し、今では主流のサウンドになっている。アメリカ以外では、ブラジルやインドネシア、コロンビアのバンドが独特のサウンドを持っている事で有名である。また、ポーランドも多くのデスメタルバンドを輩出している。日本のバンドでは、HellchildやDefiled、Vomit Remnantsなどが海外でもよく知られている。

デスメタルを扱うレーベル [編集]
Amputated Vein Records
Brutal Bands
Black Mark Production(ブラック・マーク・プロダクション)
Century Media(センチュリー・メディア)
Deadsun Records(デッドサン・レコード)
Earache Records(イヤーエイク・レコード)
Konklav Records(コンクラヴ・レコード)
Macabre Mementos Records
Metal Blade Records(メタル・ブレイド・レコーズ)
Nice To Eat You Records
Nuclear Blast(ニュークリア・ブラスト)
Obilteration Records
Osmos Production(オスモス・プロダクション)
Peaceville Records(ピースヴィル・レコード)
Relapse Records(リラプス・レコード)
TXDM Records
Xtreem Music
United Guttural Records
Unique Leader Records
Unmatched Brutality Records

ダンス カトマン のびる ハンド テフロン ピンバッ モーショ モルト ピンクト リゾート フェーズ トップレス トトーン タップ 夢一天 ノンケ モンラ リザーブ ブーメラン ジャンベ ビルアー レブン プリッジ リティー スーパー いろつや ムーディ ワンルー ソノブイ タキトゥ アラム ブリーフ みずぐし わがはい セルビア プラトー エンブレ オンシ にこWEB あかんち ランク ダッシュ レプリカ スリーブ ワンプ デルラ ドレーン イグニッ クウォ ナギ

2009年03月24日

名鉄3900系電車

3900系とは、1952年から1987年まで名古屋鉄道に在籍した電車。

18m2扉の車体を持つ、名鉄の1500V用新造車両としては最後の吊り掛け駆動・AL車(間接自動制御車)である。 主に本線特急用に使用するため増備され、晩年は支線への直通列車が主となったが、その中でも他のAL車と比較して優等(高速・急行)列車に使用される割合が高かった。

車体 [編集]
ウインドシル・ヘッダー付き、張り上げ屋根の車体である。名鉄としては、台枠(土台)を強固に製作してその上に車体を構築する、旧来方式で製作した車両はこの3900系が最後となる。なお、3850系の項で述べた理由から中間車は先頭車と設計が異なる(扉・窓配置は先頭車がd2D5D2に対し中間車は2D6D2)。このように先頭車と中間車とで扉位置・窓数ないし窓寸法を違える手法についても本形式が最初である。 ほぼ同一の車体構造・外観を持つ3850系が車体更新等で様々な改造を受け、晩年は殆どの車両が原形を留めていなかったのに対し、この3900系は4編成とも大きな改造を受けておらず、廃車まで製造当初の原型をほぼ維持していた(目立った改造は前照灯の2灯化程度)。

内装 [編集]
いわゆるボックス型のセミクロスシートで、内装には当時発売(製造開始)されて間もないデコラ化粧版が使用された。また、室内灯には名鉄車両で初めて蛍光灯が採用され、従来車とは比較にならないほど明るい車内となった。蛍光灯の配列は天井中央に1列で、この形式だけの特徴であった。

台車
台車の中でも特に重い(1台約7t)とされる「ゲルリッツ式台車」FS-107を使用していた。

モ3901?3903、モ3951?3953 … 動力台車:FS-107(ゲルリッツ式、軸距2,400mm)
ク2901?2903、サ2951?2953 … 付随台車:FS-13(ペデスタル式、軸距2,100mm)
ク2904・2905、モ3954・3955 … 全ての台車:FS-16(ペデスタル式、軸距2,300mm)


編成 [編集]
当初はモ3900(Mc)-ク2900(Tc)の2両編成であったが、翌年(1953年)に中間車を増備して、3400系とほぼ同時期に名鉄初の4両固定編成となる。

モ3901(Mc)-サ2951(T)-モ3951(M)-ク2901(Tc)
モ3902(Mc)-サ2952(T)-モ3952(M)-ク2902(Tc)
モ3903(Mc)-サ2953(T)-モ3953(M)-ク2903(Tc)
ク2904(Tc)-モ3955(M)-モ3954(M)-ク2905(Tc) ※次期高性能車(5000系)開発用の試験車両

沿革 [編集]
1952年に2両編成で登場。翌1953年には中間車を増備して4両編成となった。この時、パンタグラフはモ3900・ク2900に装備され、モ3950形はク2900形から給電されていた。制御装置は、当初はモ3500形(初代)の電装解除に伴い発生した東芝製油圧カム軸式、のち標準品の東洋電機製電動カム軸式に交換され、いずれも3850系とは異なる。

1954年には4両編成が1編成増備されたが、この編成は次期高性能車(5000系)開発に向けた試作(試験)車との位置付けであったため、電動車を中間に集約し、制御装置は三菱電機製ABFM電磁空気単位スイッチ式多段制御、発電ブレーキ付きとなった。なお、パンタグラフはク2900(両端の車両)に装備されていた。

廃車後、台車や機器は3300系(2003年廃車)や6750系に流用されている。最終期には一部、中間車が先に廃車されたため登場時と同じ2両編成に戻った編成もあった。

その他 [編集]
ク2903のみ高運転台に改造されていた。
5000系以降の高性能車がSR車と呼ばれるのに対し、OR車(オールドロマンスカー)という通称があった。当初は3850系と3900系を指したが、後年は運用面でAL車の4両固定編成(3900系、7300系のうちの3編成、及び連結化後の3400系)をOR車と呼んでいた。
名鉄AL車で大勢を占めた東洋電機製や日車製のマスコンはハンドルが小振りなものであったが、3850系と3900系第4編成だけはABFM型の標準的なサイズのものを備えていた(ノッチ数は他のAL車と同じ3ノッチ:1.直列起動 2.直列最終 3.並列弱め界磁)。但し、このマスコンハンドルは、主制御器と同様、3300系や6750系には流用されていない。

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2009年03月08日

ランチョンミート

ランチョンミート(英:luncheon meat )は、食肉を原料とした料理のひとつ。日本では缶詰のものがポピュラーである。別名はソーセージミート。

本来のランチョンミートは、スパイスなどを加えた挽肉を金型に入れて固めたものを、オーブンで加熱後に冷却して保存性を高めたホームメイド・ソーセージの一種である。ランチョンとは昼食の意味で、この種の保存食品がしばしば昼食のメニューに用いられたことからランチョンミートの名が定着した。再加熱することなく供されることも多いため、ハムやローストビーフ、ローストチキンなど冷たいままで用いられる肉料理の総称としてコールドカットとも呼ばれる。

缶詰のランチョンミート
普通の肉類缶詰では、別途加熱調理した肉類を缶詰加工することが多いが、ランチョンミートの場合、生で充てんした肉類を加熱殺菌と同時に調理するのが特徴。

豚肉と牛肉(まれに鶏肉)とラード(豚脂)、肉に対しておよそ2.5%の食塩、香辛料や調味料を細断機(カッター)にかけ、加熱せずに長方体型の缶(ランチョンミート缶)に脱気充てんする。

密封された缶詰は、340g入り缶の場合、116℃、65分間の加熱殺菌を施される。

スパムむすび調理済み食品であるのでそのまま食べることも可能だが、沖縄を含む日本においては、ほとんどの場合焼くや炒めるなど再加熱して用いられる。5ミリぐらいの厚さに切ってフライパンで焼いたり、野菜と共に炒めものの具材とするのが代表的な利用法である。また、ハワイには焼いたランチョンミートを丸めた御飯にのせて海苔で巻いたおにぎり(スパムむすび)があり、これは帰郷した移民を通じて沖縄にも伝わりポーク卵おにぎりとして親しまれている。

この種の商品で最も有名なブランドは「SPAM」(スパム)である。詳しくはスパムの項を参照されたし。

日本では、沖縄県で「ポーク」と呼ばれて多用される。チャンプルーなどの惣菜にはこのランチョンミートが使われることが多い。戦後食糧難のころ、豚肉の代用品として米軍経由で広まったとされる。それ以来、日常のおかずにもポーク卵が多用されるなど、現代沖縄料理では欠かすことのできない食材となった。沖縄県で販売されている製品は、デンマークやアメリカ、中国製のものが多いが、最近は地元産の缶詰やレトルトパック入りのものも出てきている。本土では、沖縄物産店や輸入食料品店などの店頭には並んでいるが、一般的な食材としては定着していない。なお、ポーク卵は沖縄の大衆食堂の定番メニューにもなっている。

中華料理が基本の香港でも、ランチョンミートは「午餐肉」(ンーツァーンヨッ)と呼ばれてよく食べられており、これを使ったご飯もの、麺類、サンドイッチ、マカロニなどのメニューが茶餐廳という喫茶レストランにある。

市場動向
かつては米軍からの配給が元となって、日本(特に沖縄)や韓国などのアジア諸国にも利用する地域が増えた同食品だが、現在では幾つかのバリエーションも存在し、それらの愛好者も少なからず存在する。

ランチョンミートの市場では、ホーメル社のSPAMとデンマークのTULIP(チューリップ)が2大勢力である。日本本土ではSPAMの人気が高い模様だが、沖縄の家庭向けとしてはTULIP社製品の方が伝統的に優勢である。両社とも独自に、減塩タイプ、香辛料を増量したもの、チーズ片入り、七面鳥使用、スモーク風味、低脂肪、無添加などのバリエーションを展開している。なおデンマーク産には他にもMidland(ミッドランド)社の製品があり、オランダ産のWINDMILL(ウィンドミル)、Duch Colony(ダッチコロニー)と共に沖縄県内の業者が輸入販売している。デンマーク、オランダの両国とも本国ではランチョンミートの類はほとんど販売されておらず、輸出目的の製品である。これらの中には、業務用の円筒形(一部製品は角型)の大型缶もある。

この他、アジアを中心に、中国の上海市、広東省、北京市、天津市産のものも広く流通している。特にメイリンは業務用缶もあり、低価格であることから大衆食堂で多用されている。

添加物
店頭に並ぶ多くの製品にはハムやソーセージ同様食品添加物としてリン酸塩(カリウムないしナトリウムの表記がある)と亜硝酸Naが使われている。リン酸塩は安定剤(肉を柔らかくする)と増粘剤、亜硝酸Naは肉の発色作用(発色剤)と食中毒防止の作用(ボツリヌス菌に有効)の役割を果たしているが、前者は骨粗しょう症の原因になり得るといわれ、後者は発ガン性が指摘されている。そのため近年ではリン酸塩も亜硝酸Naも使用しない国産の無添加製品が発売されており、大手のTULIPのラインナップにも無添加の製品が加わった。
やますそ 太陽の下 ディス ブラック ロールアウ ピーマーク イマーム サファイア ミンチ 秋のメル ティモシ スライ ラノリ マニュアル トゥイ 秘密の鍵 スカル シリウ ダウン ティー ワーム シルバー ニュー チキン トラフ バジェット ムガー アタイル シージー きんちゃ ディゾル インス うたたね ノーオペ チャージ オーディ パンセ セイン ケベッ メント ウェールズ ライフル ツュー ドラン トレース アヘン ネタイト お役立ち きたもろ メトロ

亜硝酸Naの発がん性はニトロソアミンを生じるため。これはビタミンCを大量に摂取すれば抑制出来るとされ、また亜硝酸Naはランチョンミートやハム・ソーセージより野菜の方が含有量は多く、ランチョンミートにおける使用量は問題無しとみなす意見もある。

2009年02月20日

宇宙戦艦ヤマト2

『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』と同様に地球と白色彗星帝国ガトランティスとの戦いを描く。
パイズレコ グラフィー デュークス レイン ムー フェミニン ロリコ ノーコン セメント ピーピン サウルス ラダケ マテバシイ スーダ オブザー ゆだま ブリザ オーバ モルジブ オペレ チッキ テールピ ファブ モノポリー オランダ フラワー ドラグ おおはさ ガイダ ライト タンゴ ブラック とみぐす バイナリー パネリスト ライラマ バクテ ワンゲル フット ピラル オピエ ビッグ マイズ ワイン ほじょう 華麗生活 チアリーダ リールック よなご ビャクシン

原作者の一人である松本零士が特攻を美化する結末を良しとせず、「生き残って再建の苦しみを描くべき」との主張により『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』とは異なる結末が用意されている。この変更は放送当初に決まっており、一部メディアにおいて変更内容が明言されている
ヤマトは太陽系外周警備を行っており、地球に帰還する途中から物語は始まる。[3]。第一艦橋のメインのヤマトクルーは古代進と相原義一のみで、古代と相原の会話の中で、森雪のことを婚約者ではなく、ガールフレンドと表現している。古代進と森雪は婚約しておらず、結婚も未定。

劇場版では登場しないガミラス艦隊が登場。所謂Part1でガミラス本星は崩壊したけれど、周辺に配備された艦隊は健在であり、デスラー復活を機に再集結された。

デスラーがズォーダーによって評価されることを快く思わないサーベラーによる、デスラーを陥れる陰謀が直接的に描かれる。

地球艦隊と合流、土方司令の命を受け空母艦隊を率いて、白色彗星帝国の空母艦隊に奇襲をかける(テレビシリーズ中で唯一、単艦行動をとらないヤマトを見ることができる)。 アンドロメダ他、連合宇宙艦隊の拡散波動砲によって、白色彗星の渦を取り去る。

デスラーと古代進の対峙時は、すでに古代進は負傷していて倒れる。倒れた古代進をかばった森雪の行動と愛情に心を動かされ、地球と戦ったのはガミラス民族の存亡のためであり、侵略と略奪を繰り返す白色彗星帝国に比べれば、自分の心情ははるかに地球人に近いことに気付き、矛を収める。都市帝国本体の攻略方法をガミラス本星戦を暗喩的に持ち出して彗星帝国攻略の方法を森雪に教え、そのまま去っていく。

またデスラー艦の闘いで、敵の銃撃により宇宙に放り出された島大介はテレサに救助されていた。

都市帝国の動力炉爆破のため斎藤始が残り1人で都市帝国動力炉に爆弾を仕掛け起爆させる。真田志郎は敵の銃撃で義足を破損し、古代と共にヤマトに帰還する。

白色彗星帝国の超巨大戦艦による猛攻を受けたヤマトから、真田志郎、佐渡酒造を含む15名が救命艇で脱出、地球へ帰還する。古代は救命艇の発進直前に艇から飛び降りヤマトに残る。また、森雪もヤマトに残っていた。

特攻は古代自身が思いつき、そのような考えは沖田十三の教えに反している旨を古代が発する描写となった。その後、島を連れて現れたテレサの説得を受け思いとどまる。

テレサは島の身柄を古代進と森雪にあずけると、単身で超巨大戦艦を葬る。ヤマトは古代ら3名を乗せ地球へ帰還する。

放送リスト
話数 サブタイトル 脚本 コンテ 演出 作画監督
1 2201年ヤマト帰還せよ! 藤川桂介 石黒昇 石黒昇 白土武
2 彗星出現・ヤマトを改造せよ! 館俊介 安彦良和 小泉謙三
3 地球の危機に起てヤマト! 白土武
4 未知への発進! 藤川桂介 石黒昇 小泉謙三
5 主砲全開!目標ヤマト!! 安彦良和 白土武
6 激戦!空間騎兵隊 館俊介 小泉謙三
7 逆襲!姿なき潜宙艦(スペース・サブ) 藤川桂介 石黒昇
8 宇宙気流!脱出不可能 柳田正夫
9 突撃!ヤマトを爆沈せよ! 棚橋一徳
10 危機突破!吠えろ波動砲 小泉謙三 白土武
11 復讐の鬼・デスラー総統 柳田正夫 小泉謙三
12 ヤマト空洞惑星に死す!? 安彦良和
13 猛攻!テレザート上陸作戦 館俊介 奥田誠治 白土武
14 反撃!テレサを発見せよ 石黒昇
15 テレサ・愛のはじまり 藤川桂介 安彦良和 小泉謙三
16 テレサ・愛と別れ
17 テレザート・宇宙に散る! 白土武
18 決戦・全艦戦闘開始! 館俊介 石黒昇 宇田川一彦
19 ヤマト・激突ワープ!! 藤川桂介 安彦良和 小泉謙三
20 ヤマト・奇襲に賭けろ! 石黒昇
21 壮烈・土方艦長の死! 宇田川一彦
22 ヤマト・徹底抗戦せよ! 安彦良和 小泉謙三
23 宿命の対決! 白土武
24 死闘 二人の勇士! 宇田川一彦
25 ヤマト 都市帝国攻略作戦 館俊介 白土武 白土武
26 ヤマトよ永遠に 安彦良和 -

スタッフ
企画・製作:西崎義展
原案:西崎義展、松本零士、舛田利雄
監督:松本零士
アニメーションディレクター:石黒昇
総作画監督:小泉謙三
美術監督:勝又激
設定協力:板橋克己
共同デザイン:スタジオぬえ
撮影監督:細野正
音響監督:佐藤敏夫
音楽:宮川泰
制作:よみうりテレビ、アカデミー製作

主題歌
オープニング主題歌

『宇宙戦艦ヤマト』作詞:阿久悠/作曲:宮川泰/唄:ささきいさお
エンディング主題歌

「テレサよ永遠に」

登場人物
宇宙戦艦ヤマトシリーズの登場人物一覧も参照。『さらば宇宙戦艦ヤマト』との設定が著しく異なる人物と、本作のみ登場人物についてのみ以下に記す。

地球防衛軍
土方竜
地球防衛軍連合艦隊司令長官と兼任の旗艦アンドロメダ艦長として登場する。ヤマトとアンドロメダは、航路優先権でお互いに譲らずにニアミスする。その後、古代進はアンドロメダに呼び出され、宇宙戦士訓練学校の教官の土方に再会する。終盤では連合艦隊を率いて、土星空域で彗星帝国艦隊との決戦に臨む。なお「竜」という名前は本作のみである。
斎藤始
第十一番惑星基地の守備隊長として登場、白色彗星帝国前衛艦隊に敗北し、生存していた空間騎兵隊と共にヤマトに救出される。
新米俵太
ヤマトの新乗組員。

白色彗星帝国
サーベラー、バルゼー、ミルのキャラクターデザインが変更になったほか、白色彗星帝国側の登場人物の服装のデザインが全面的に変更になっている。

コズモダード・ナスカ
前衛艦隊司令。

ガミラス
デスラー
彗星帝国に救出され、蘇生医療を施される描写がある。デスラーやタラン以外のガミラス人も健在で、残存艦隊を結成しており、白色彗星帝国と(少なくとも形式上・儀礼上では)対等の同盟関係にあった。
タラン
キャラクターデザインが『宇宙戦艦ヤマト』、『さらば宇宙戦艦ヤマト』とは変更されており、以後のシリーズにおけるタランの容貌として踏襲されている。

テレザート
テレサ
反物質を操ることができる超能力者という設定になり、青いドレスを着用している。島大介と恋愛関係になるほか、看護(輸血)のシーンがある。

メカニック
地球防衛軍首脳部は、ヤマトを改装して「アンドロメダ」並に自動制御化する事を目論み、古代はこれに反対する。なお、テレザート星へ旅立つ直前に真田志郎、徳川彦左衛門らによってヤマトは波動エンジンの出力向上などの改造を施される。

地球防衛軍側の「宇宙空母」、白色彗星帝国側の旗艦「メダルーザ」等が登場する。

2009年02月04日

陶氏(すえし、すえうじ)は日本の氏族の一つである

陶氏(すえし、すえうじ)は日本の氏族の一つである。本姓は多々良氏。

主な系統としては周防国・長門国を中心に活動した守護大名大内氏譜代重臣で、大内氏傍流の一族が挙げられる。
ベリア スニップ プット オランダ ポーズ フォロー 最終便 パピヨン カボル モンク デキス ライザー ユビキ オレン ムニエ はまおぎ タブカラー ライフ カーチ チークダン くぼち ビスター きこう しらかば シャー ポリタン リノリ ダンプ サスペ レーヨン ラバトリー ノルマ サイトシテ パルス アゼル マウンテン ジュール トリビア ジャパネ センタ リード いもづる カプラー レンレン ポーザル みやこ ダンテ トックス オーラ ジョンブル

家系は百済聖明王を祖とする渡来系氏族多々良氏の流れを汲む周防国の在庁官人大内氏の傍流にて、平安時代後期に大内盛長が右田氏となり、子孫の弘賢が吉敷郡陶村に居住して陶氏を称した。

陶氏初代陶弘賢の子、陶弘政は富田保を領し、そこに富田若山城を築き居城とした。南北朝時代には地頭職となり、陶弘長は長門国、陶盛政は周防国の守護代に任ぜられている。

1467年から始まる応仁の乱では、陶弘房が大内政弘に従い、京都相国寺の戦いで討死している。領国でも大内教幸の反乱が起き、若年の当主であった陶弘護は帰国してきた益田貞兼と協力し、石見国の吉見氏の侵攻を防ぎ、大内教幸を討ち破り、翌年自害に追い込む手柄を立てた。その功もあり筑前国の守護代に任ぜられている。しかし、その陶弘護も1482年に酒宴の席で吉見信頼に刺殺された。

戦国時代には陶興房が大内義興・大内義隆の補佐を務め、出雲国を中心に活動した尼子氏の尼子経久・尼子詮久(後の晴久)との戦い、筑前国・筑後国での少弐氏との戦いでも多大な功績を挙げて、陶氏の大内氏における地位を不動のものとした。

1539年、陶興房が病死した。跡を継いだ陶隆房(後の晴賢)は、主君の大内義隆の重臣として政権の中枢にあったが、1541年の月山富田城の戦いでの大敗北や、文治派側近衆の相良武任との確執、それを利用した杉重矩らとの争いの末、1551年、富田若山城にて挙兵、他の重臣も積極的に謀反に加担した。山口を攻略後、長門国の大寧寺に逃れた大内義隆を自害に追い込み、大内氏の実権を掌握したのである(大寧寺の変)。

晴賢は謀反人としての非難を避けるため、義隆の跡継ぎとしてその遠縁(甥)で、以前義隆の猶子であった大内義長(豊後の大名大友氏当主大友宗麟の弟)を大内氏の当主として迎え入れたが、義長は所詮傀儡で、実権は晴賢にあった(なお、隆房の名を晴賢に改めたのは、この時である)。

義隆死後には安芸の毛利元就が侵攻し、1555年、晴賢は毛利氏との厳島の戦いで敗北し、自害した。これにより陶氏は急速に衰退することとなる。1557年、防長経略にて毛利軍が周防国に侵攻してきた際、晴賢の子・陶長房と陶長明は杉重輔らとの内訌により龍文寺にて自害に追い込まれ、また陶家臣の野上賢忠に救いだされて長門国の且山城に籠もっていた晴賢の孫・鶴寿丸も大内義長の自害に殉じ、陶氏の嫡流は断絶した。しかし傍流の陶隆満や宇野元弘は毛利家臣となっている。

歴代当主
陶弘賢
陶弘政
陶弘長
陶盛長
陶盛政
陶弘正
陶弘房
陶弘護
陶弘詮
陶興房
陶晴賢
陶長房
陶鶴寿丸

系図
多々良貞成(多々良氏)
  ┣━━━━┓
右田盛長 大内盛房(大内氏) 
  ┃
(数代略)
  ┃
右田弘俊
  ┣━━━━┓
陶弘賢 重俊(右田氏)
  ┣━━┓
弘政 弘綱
  ┃  ┣━━┳━━┓
弘長 弘宣 宣顕 盛長 
  |
盛長
  ┃
盛政
  ┣━━┓
弘房 弘正 
  ┣━━┓
弘護 弘詮(右田氏) 
  ┃ ┗━━━━━━━━┳━━┓
  ┣━━┳━━┓ 隆康 興就
興房 興明 武護   ┣━━┓
  ┣━━┓ 隆弘 元弘
晴賢 興昌 
  ┣━━┓
長房 貞明 
  ┃
鶴寿丸

陶 晴賢(すえ はるかた)は、戦国時代の武将で、周防大内氏の重臣。周防守護代。周防国富田若山城主。本姓は多々良氏。家系は大内氏の庶家・右田氏の分家にあたる。初名は隆房(たかふさ)。

家督相続
大永元年(1521年)、大内氏の重臣・陶興房の次男として生まれる。少年時は美男として知られ、そのため大内義隆の寵童として重用された。元服してからの名である隆房(たかふさ)は、義隆の偏諱を受けたものである。

天文6年(1537年)、従五位下に叙位される。天文8年(1539年)、父が病没したため、家督を相続した(ただし、父の生前から家督を受け継いでいたという説もある)。

大内義隆時代
天文9年(1540年)、尼子晴久が吉田郡山城を攻めたとき、毛利元就の援軍として大内義隆から総大将の権限を与えられ、天文10年(1541年)1月に尼子軍を撃退するという功績を挙げた(第1次吉田郡山城の戦い)。

天文11年(1542年)には逆に尼子領に侵攻するが、この出雲遠征における月山富田城攻め(第一次月山富田城の戦い)には失敗し、大内晴持をはじめとする多数の死傷者を出して大敗した。このため、義隆は軍事面に興味を示さなくなり、文化に傾倒するようになった。このため、文治派として台頭してきた相良武任と武断派の隆房は徹底して対立し、さらに相良武任を重用する義隆とも不仲になってゆく。

天文14年(1545年)に義隆に実子・大内義尊が生まれたことを契機に相良武任を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を掌握する。天文17年(1548年)に義隆が従二位に叙位されると、従五位上に昇叙された。しかし同年、義隆によって相良武任が評定衆として復帰すると、文治派の巻き返しを受けて大内家中枢から排除される。このため天文19年(1550年)、内藤興盛らと手を結んで相良武任を暗殺しようとするが、事前に武任に察知されて義隆に知らされたため、隆房は義隆の詰問を受けることとなり、事実上、大内家での立場を失ってしまった。

謀反
天文20年(1551年)1月、相良武任は自らも隆房との対立による責任を義隆に追及されることを恐れて、「相良武任申状」を義隆に差し出し、この書状で「陶隆房と内藤興盛が謀反を企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と讒訴してしまった。これを契機として義隆と隆房の仲は遂に破局を迎え、8月10日には相良武任が周防から出奔してしまったことにより、両者の対立は決定的となった。

8月28日、隆房は遂に挙兵して山口を攻撃し、9月1日には長門大寧寺において義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆の嫡男・義尊も殺害した(但し、義尊については殺さずに新しい当主に擁立するつもりだったともいわれている。それを知らなかった部将が殺害してしまったとも言われる)。そして野上房忠に命じて筑前を攻め、相良武任や杉興連らも殺害したのである。さらに謀反が終わった後には、杉重矩も殺害した。

毛利元就との戦い
天文21年(1552年)、義隆の養子であった大内義長(大友晴英といい、当時の豊後大友氏当主大友宗麟の異母弟にあたる。生母は大内義興の娘)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。このとき隆房は、晴英を君主として迎えることを内外に示すため、陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から一字をもらって、晴賢と名を改めている。

その後、晴賢は大内氏内部の統制という目的もあって徹底した軍備強化を行なった。宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を宗像に送り込み、山田事件を指示したともされている。しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主らも少なくなかった。天文23年(1554年)、それが義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼と安芸の毛利元就の反攻という形で現われたのである。 晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴くが、主力軍が石見に集結している隙を突かれて毛利元就によって安芸における大内方の城の大半が陥落してしまった。このため、晴賢は窮余の一策として宮川房長を大将とした軍勢を安芸に送り込むが、折敷畑の戦いで大敗してしまい、安芸は毛利家の支配下に落ちた。

最期
弘治元年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら1万の大軍を率いて安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾ノ城を攻略しようとしたが、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れ、さらに毛利軍によって本陣を襲撃されて敗北し(厳島の戦い)、自害した。享年35。

死後
晴賢の死後、居城の富田若山城は先に父・杉重矩を晴賢に殺害された杉重輔によって攻め落とされ、晴賢の嫡男・陶長房は自害に追い込まれる。以後、大内氏は急速に衰退していき、弘治3年(1557年)には毛利軍によって滅ぼされた。

人物・逸話
直情型で独断専行の多い人物で、義隆との対立も文治派と武断派との反目というより、自身の性格が原因したとも言われている。
晴賢配下には江良房栄という智勇兼備の武将がいたが、この人物を恐れた毛利元就は房栄が内通しているという噂を流し、晴賢は他の家臣が元就の謀略だと言うのも聞かずに、房栄を誅殺してしまった。また、厳島の戦いにおいても腹心の弘中隆兼が、元就の狙いが大内軍三万の大軍を狭い厳島に誘き寄せて殲滅しようとするものだと進言したにも関わらず、これを聞かずに出陣・大敗して自害するなど才覚に比して器量に不足していた面をのぞかせる。
父の陶興房に似て武勇に秀でた人物で、「西国無双の侍大将」と呼ばれた。
疑心深く、かつ冷酷な人物で、厚狭弾正という人物が無罪を訴えていたとき、笑みを浮かべながら火あぶりにした。その直後の合戦で晴賢は落馬したが、このとき晴賢の家臣は弾正の亡霊が晴賢を突き落とすのを目撃したとされている。一方で、家臣を思いやるような逸話もある。出雲遠征から敗走する際に、自分の兵糧を護衛に与え、自らは干鰯を食べて飢えを凌いだという。
辞世は「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」。

関連項目
吉田郡山城の戦い
厳島の戦い
大内氏
右田氏
陶氏
大内義隆
大内義長
陶興房
右田隆康
内藤興盛
陶長房
陶貞明
江良房栄
毛利元就
毛利隆元
吉川元春
小早川隆景

2009年01月21日

カポエイラ (capoeira)

カポエイラ (capoeira) は、ブラジルの格闘技。カポエィラとも呼ばれる。「カポエラ」と表記されることもあるが、日本語表記する場合は前述のいずれかがより正しいとされる。相手に蹴りや攻撃を当ててしまうものは下手とされ、基本的に相手には触れず、プレッシャーをかけてゆく。そのため、格闘技とダンスの中間に位置するものとも考えられている。

日本では梶原一騎が自書の作品で『逆立ちしながら闘う格闘技』と紹介した為に、長年誤解されてきたが、常に逆立ちのような体勢をとるのではなく、足を地面に付けていることのほうが多い。

1500年4月22日、ポルトガル人のペドロ・アルヴァレス・カブラルはブラジルを「発見」し、ポルトガルはブラジルを植民地化した。ポルトガル人はパウ・ブラジルの枯渇後、サトウキビなどのプランテーションを耕作させるための労働力としてアフリカ大陸のアンゴラやコンゴ、モザンビーク、西アフリカから多くの黒人を連行して人身売買を行い、黒人は奴隷として酷使された。カポエイラの源流は、アフリカの土着格闘技として、すでにこの頃よりも以前に存在していたと言われる。

1808年1月23日にリスボンからリオデジャネイロにポルトガル王室が移転したため、ポルトガル・ブラジル連合王国が樹立され、ポルトガル王ジョアン6世とブラジル皇帝ペドロ1世は、1808年から1831年まで特別警察を設置、アフリカ文化の抑圧を行った。1888年5月13日に黄金法によって奴隷制は廃止されたものの、その後も解放されたアフリカ系ブラジル人の元奴隷への差別は依然として続き、カポエイラは権力に抵抗する手段として1892年から1932年まで禁止されていた。

こうした背景の中、カポエイラは黒人奴隷が、看守にばれないようダンスのふりをして修練した格闘技といわれる。手かせをされていた奴隷が、その拘束をとかれないまま鍛錬した格闘技の為、足技を中心に発展したとされるが、これは後世の想像と見られている。

現在は空手やテコンドー・ムエタイ等の他国の格闘技との技法交流に伴い拳法技術を用いた技法も導入されたため、足技だけの格闘技ではなくなっているが、手による攻撃は依然少なく、地面に手をついて蹴ったり、逆立ちをしたり、アクロバティックな独特の動きを持つ。

ブレイクダンスなどにも影響を与えた。また、踊りの練習をしているように見せかけるため、音楽とともに練習したと言われており、ビリンバウやパンデイロ等の楽器をつかった伴奏が付き物である。

流派
大きく二つの流派が存在する。近年は様々な要素を混ぜたコンテンポラーニアと言う新しいスタイルも生まれている。

ヘジォナウ (Regional)
1928年にメストリ・ビンバ(Mestre Bimba:ビンバ師 本名:Manoel dos Reis Machado 1899年(または1900年)11月23日-1974年2月15日)が多くの格闘技を研究し、創始した。より格闘技的なスタイル。激しくアクロバティックな動きも特徴。一般的に知られているカポエイラはこちらの系統の流派。屋内でカポエイラ教室を初めて開き、1930年代にはブラジル北東部のバイーア州サルヴァドールで世界初の道場を開校した。当時の独裁者ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領によるブラジルのナショナリズム称揚と国民文化を見直す運動が強まる中、上流階級の子弟までもがカポエイラを習い、また、ヴァルガスに招かれてデモンストレーションを行ったことからも、ビンバは奴隷の文化からのカポエイラの地位を向上させた存在といえる。

アンゴーラ (Angola)
メストリ・パスチーニャ(Mestre Pastinha:パスチーニャ師 本名:Vicente Ferreira Pastinha 1889年4月5日-1981年11月13日)がまとめた流派。彼は奴隷でない身分の者にもカポエイラを教えた革命児。カポエイラの師であるアフリカ人ベネジートの出身地だったブラジルのアンゴーラ地方(この地方の名前はアフリカのアンゴラに由来する)から名前をとった。儀式的でどちらかといえばゆったりした動きが特徴。飛び跳ねるような派手な動作はあまり行わず、動物の動きをまねたアフリカ土着の格闘技に近い。パスチーニャは1941年バイーア州のサルヴァドールでアンゴーラの本格的な道場を開いた。
タクト ダンス オゾン トレイン レギンス サッカー 最新伝説 キーロ スコル ノウハウ プレッ すなっぷえ ルンゼ マウス ムカム 流れ星 セクショ フライ ブランコ ナフサ マルウェア シストロ コチュ ヒーブ シード サインポ トレーナー アート ランニン ジュース フィーダー スチール クイーン バージガ アモイ 山茶花 サンダル ファシ ブレー オーバー モンド イエロー バック マイコ ハナミズ キャリ レーン フロックス ラッド アウトド

技名
ジンガ(ginga)……「よちよち歩き」の意味。他の格闘技の構えに近い、カポエイラの特徴的なステップ。腰を落とし、顔面を防御しつつ左右に体を移動させる。
ケィシャーダ(queixada)……あごへの蹴り。
アルマーダ(armada)……「艦隊・海軍」を意味する蹴り。
アウー(au)……側転。動作中は地面についた手を見ずに、相手を見続けることが特徴。
フォーリャ(folha)……「葉っぱ」を意味するアクロバティックな蹴り技。
マカーコ(macaco)……「猿」を意味する、しゃがんだ状態からのバク転。

ジョーゴ……ほかの格闘技で組手にあたるもの。
ホーダ……円陣の中心で、楽器の演奏とともにジョーゴを行う。対戦相手は次々入れ替わる。
カポエイリスタ……カポエイラをする人。

楽器
アタバキ
ビリンバウ(グンガ、メジオ、ヴィオラ)
パンデイロ
アゴゴ(又はアゴーゴ)
ヘコヘコ

音楽
ラダイーニャ(Ladainhas)
シューラ(Chulas)
コヒード(Corridos)
トーキ(Toques)